名誉教授

名誉教授

新崎 盛暉

研究活動

 沖縄生まれの両親を持ち、東京で生まれたぼくの沖縄との最初の出会いは、1952年4月28日である。この日ぼくが入学した都立高校の校長は、全校の教職員・生徒を校庭に集めて、「今日日本は、めでたく独立しました。万歳を三唱しましょう」といった。この日は沖縄が米軍政下に置かれ続けることが確定した日でもあったのに・・。国民学校三年生のとき敗戦を迎えた愛国少年のぼくは、このとき初めて「日本にとって沖縄とは何か」という問いを突きつけられた。このときからぼくは、この問いを反芻し続け、沖縄問題の解決を実践的課題としてきた。その過程が、研究活動と言えば言える。ぼくの大学の卒業論文のタイトルは、『日本復帰運動の研究―沖縄問題理解のための覚書』という。ぼくの卒論は、スターリンの民族理論まで援用し、「民族とは何か」、「ナショナリズムとは何か」を論じたうえで事例研究として日本復帰運動を取上げるという体裁をとっていた。この事例研究の部分を膨らましたものが、65年に出版した岩波新書『沖縄問題二十年』(中野好夫と共著)である。

川井 勇

プロフィール

 1947年、東京で生まれる。かすかに東京大空襲の傷跡が残る深川で幼少期を過ごす。私立帝京高校を経て早稲田大学へ。自治会執行部の問題提起を受けた4.28についてのクラス討論で初めて「沖縄」と向き合った。当時学内は沖縄に連帯する立て看板があふれていたし、沖縄はしばしば討論のテーマになった。そして、忘れもしない1971年の暑い夏、ぼくは初めて沖縄の土を踏んだ。カルチャーショック、致命的な「沖縄病」にかかった。その後、沖縄戦後教育史研究の先駆者上沼八郎氏に出会い、そして沖縄、宮古、八重山へと、戦後教育の先達を訪ね歩く旅が始まった。

 大学院を卒業し、私立高校の教員になったが、腕白坊主たちとの「格闘」の日々であった。毎日が楽しかった。何とか満足のいくクラスを作ることができ、彼らを卒業式で送ることになったとき、ぼくも職を辞し、沖縄へ向かった。進路指導で向かい合った腕白坊主たちが、ぼくの背中を押してくれたのかもしれない。船で沖縄に着いたのは、1979年3月22日。沖縄生活が始まった。

ディリープ・チャンドララール

研究活動

 わたしは日本語の美しさ、特にあいさつや敬語などの社会的美の心に魅せられて日本に来た。そして日本語における人間関係の表現を研究し、それを私になじみのある他の言語、つまり英語とスリランカのシンハラ語と比較しようと思った。今まで「社会言語学」の立場から、多言語・多民族社会の諸問題、近代国家の枠組みと言語的マイノリティの関係、民族対立、言語の消滅などの領域にわたって研究を行なってきた。 また、「認知言語学」の観点から言語表現を分析する試みを行なった。人間の認識パターン、発想パターンによって言語表現の多様なパターンが見られる。例えば、「Time is money」は本来何も関係のなかったものを、「価値」という類似性をもって結び付けている表現である。このように認知と言語の関係を見ていく。

仲地 博

研究活動

 若いころはドイツ公法学の研究を志し、「シンドラー・憲法と社会構造」(有信堂刊)の翻訳をしたこともあるが、最近は沖縄に軸足を置いて地方自治を研究している。

 私は、1945年終戦の年の生まれである。戦争の爪跡はここかしかに残っていた。甲子園の土の逸話で知られる首里高校を出たが、その首里高校は琉球政府立であった。国費学生として北海道で大学生活を送った。沖縄から船と汽車を乗り継ぎ丸3日がかりで到着した札幌、気温は20度違い、もちろん雪を見るのは初めてであった。日本の広さ、豊かさ(経済的意味ではない)、多様さを実感した。復帰運動が燃え盛っているころで、沖縄出身の青年ならば、誰でも故郷の現状に心を痛め、何ができるか何をしなければならないかを日々反芻していた。その後東京で5カ年間の大学院生活を送った。沖縄の自治と平和に公法学はどう貢献できるかが課題であった。若い日の問題意識を今も持ち続けている。

新城 将孝

研究活動

 主に、「会社法」に関する勉強をしています。企業統治は、「企業(会社)は誰のものか」という問いかけから始まりますが、企業不祥事の防止や経営効率の向上等に目を向け勉強しています。細かいところでは、社外取締役は必要かという議論もします。そして、取締役の義務は・・・?取締役の責任は・・・との課題にも取り組みます。もちろん、株式とか、株主の地位についても勉強します。そして、会社をつくるにはどのような手続きを取るべきかも勉強します。会社の決算もどのようにすべきかということも勉強します。会社は株主のものともいわれますが、所有と経営の分離とか、所有と支配の分離とかについても勉強していきます。

上原 冨二男

研究活動

 沖縄は160余の島からなる島嶼県、島嶼地域である。しま」というと、まずは周囲を水域で囲まれた小さな陸地の島を連想する。しかし,沖縄では「出身地」「ふるさと」につながる「集落」をも意味する。また「しま」は「浦」「里」にも通じる。「島」と「しま」に共通するのは,個性的あるいは地域的特徴を有する広がり、空間ということである。地理学の対象は地域であり、空間であることから「島」および「しま」は地理学の調査研究対象となる。沖縄の島は目崎茂和氏によって高島と低島に分類された。高島は,山地や丘陵の高い地形がある島で、沖縄島は県内のみならず南西諸島のなかで最大の高島である。一方、低島は高い地形がなく、台地や低地が卓越する島である。低島はサンゴ礁が隆起して生まれた島が多く、宮古島は南西諸島中最大の低島である。このように沖縄の島々を地形の特徴に基づいて分類すると、地形や土壌水などに関わる自然環境の特徴がとらえやすくなり、ひいては島の自然と人の暮らしとの関わりについても理解しやすくなる。かかる視点から、島の自然環境や人の暮らしの変化に関わる景観、および先祖から継承されてきた文化財である地名について調査研究を行っている。なお、八重山民謡の小浜節は、小浜島の「島」・「しま」・「風水」・「人」のつながりを歌い上げた、実に地理学的構成をもつ歌といえそうだ。

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