沖縄大学こども文化学会 設立総会・講演会

沖縄大学こども文化学会 設立総会・講演会

2016.08.08

2007年にスタートした こども文化学科も、今年2016年度、第10期生を迎えることとなりました。創立10周年を記念して、去る8月7日(日)、本学同窓会館にて、「沖縄大学こども文化学会 設立総会・講演会」が行われました。

沖縄大学こども文化学科の卒業生、在校生、教員、そして「こども」や「教育」の問題に心を寄せる人々が集い、自由な交流ができる、楽しい情報交換の場ができました。

 

設立総会では、喜屋武政勝会長(こども文化学科 学科長)より、「こどもに関する文化と教育についての学術及び活動の振興を図る」ことを目的に、

①研究発表会・講演会の開催 

②教育現場の実践報告会の開催 

③研究に関する刊行物の発行 

④こどもに関わる活動の振興

等を行っていきたいとした会則が紹介されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

基調報告では、こども文化学科を設立前から支え続けてくださった、川井勇氏(こども文化学科 教授)より、次のような学会の意義付けがなされました。

 

①10年は一つの節目。学会の設置によって、学科も原点に立ち返ってこれからのことを考えるきっかけにしたい。

②こども文化学会は、同窓会であり、自主的、自発的な研修の場、学びの場にあたるのではないかと思う。

 (「こども文化学科10年と『こども文化学会』設立について」より)

 

続いて、在学生のゼミ活動報告や、卒業生などの実践報告の部。

 

盛口ゼミの伊計利沙さんは、「離島のこどもたちへの教育実践」をテーマにゼミ活動報告。

石垣島白保で行われる夏のこどもキャンプに5年前からゼミ生が通い、自然体験や環境学習のサポート役を学びながら、こどもたちへ模擬授業をさせてもらっているプログラムを紹介し、白保の人々やこどもたちと接する中で感じた島の良さを模擬授業で伝えることができたことや、今年のキャンプの準備状況について報告してくれました。

 

 

川井ゼミの髙宮城奈さんはゼミ活動報告を、「行事づくり、授業づくりを核として」のテーマで、①「同じ釜の飯を食べる会」などの2,3,4年次合同行事②1年生が授業をする「学校ごっこ」の企画・運営(2年ゼミ)③沖大祭期間限定の2,3年生が授業をする模擬学校「沖縄大学付属小中学校」の企画・運営(3年ゼミ)④石垣市の私立海星小学校で行う学生による「体験授業」(3年ゼミ)⑤総合学習でユニークな実践を続けている長野県の市立伊那小学校の公開学習指導研究会を視察する「4年次ゼミ旅行」について紹介。

継続してきたこれらの活動を通して、「共働」(つながりあい、まなびあう)することの大切さを実感したと語ってくれました。

 

名嘉帆希さんは、「尚円の里、600周年のあゆみを振り返ろう」と題して、自身の生まれ育った伊是名島の「尚円王祭り」に1年次の時から毎年こども文化学科の友人らを案内してきたこと、昨年の祭りでは友人30名で企画した尚円王と島の歴史を伝える授業を行ったこと、そうした体験を通して自分たちも沖縄のこと、地元のことを常に学び続けていこうと思うようになったと話してくれました。

 

 

昨年から天久小学校に勤務する卒業生の具志堅陽さんからは、集団活動を通して自主的、実践的な態度を育てることなどが求められるという「特別活動」についての事例発表。学級全員で思い出をつくろうという試みをこどもたちが生き生きと結実させていく様子に、教諭一年目ではあっても見事な実践だったことを垣間見せてくれました。

発表を聞いた参加者から、経歴や経験だけではできることではないですね、とため息交じりのコメントが聞こえてきました。

 

 

昨年3月に兵庫教育大学大学院を修了した島袋大地さんは、現在沖縄市立中の町小学校に勤務。特別支援学級が毎年1,000学級以上新設され急増する中で、担任が抱えている「困り感」を明らかにした院生時代の研究を紹介。

経験者への集団インタビュー調査から抽出した8つの主な「困り感」についてアンケート調査を実施し、その実態を浮き彫りにしつつ、それらの軽減策を講じる必要性を訴えるものでした。

 

 

卒業生2人、在学生3人より、ゼミ活動報告や実践報告がなされたあと、後半は星野人史氏(珊瑚舎スコーレ代表〈写真右手〉)と夜間中学校卒業生(〈写真右手より左手へ〉宮城さん、仲宗根さん、嘉数さん)が「『学校で学ぶ』ということ」という演題で、学ぶことの本質的な意味を具体的な姿で語りかけてくださいました。

 

(↓ 実践報告、講演を熱心に聞く学生達)

 

 

 

 

 

 

こども文化学科創設10周年記念

沖縄大学こども文化学会設立記念講演会

 

 

― 記念講演の部は、この講演を準備した思いを学会運営委員の川井教授が紹介することから始まりました。

 以下、要旨録です。― (文責:経営企画室)

 

川井:星野人史さんは、2001年に那覇市に私塾として珊瑚舎スコーレを立ち上げた。2003年からはNPO法人が運営している。現在、初等部、中等部、高等部があるが、沖縄戦や戦後の混乱・貧しさのために、義務教育を受けられなかった人の学びの場として、珊瑚舎スコーレ夜間中学校を2004年に開設した。夜間中学卒業生の嘉数恵美さん80歳、仲宗根節さん73歳、宮城ミツ子さん78歳は、3人とももっと勉強したいと泊高校に進学、卒業された。

皆さんにお話を伺うのは、こういう風に考えたからだ。基調報告で10年目の節目に学会を立ち上げ、原点に返ると捉えたいと話したが、夜間中学の生徒さんは、「学校で学ぶということが楽しくてしょうがない」という。僕たちは、改めて「学校で学ぶ」とはどういうことかについてとらえ直すきっかけを持ちたい。そういう話を伺えるのではないか。

それからもうひとつ、夜間中学の皆さんは沖縄の戦後の中で大変ご苦労をして生きてこられたと思う。沖縄について考えることが僕らの中でだんだん弱くなってきているかもしれない。夜間中学の皆さんのお話を通して、沖縄の戦後ということについて改めて考える機会を持ちたい。そういうことで今日は星野さんと夜間中学の卒業生の皆さんをお呼びした。 

 

 

沖縄大学こども文化学会設立記念講演<要旨録>

「学校で学ぶ」ということ

星野人史 氏(NPO法人珊瑚舎スコーレ代表)

 

学校は制度です。制度は人間のためにあるんですね。制度のために僕たちはいない。そこがはっきりしていない人が多いです。

若い方々に言いたい。制度を人間の側に引っ張ってくる力を持たなくちゃだめです。制度を常に、こどもたちの側に引っ張ろうという思いがないと、だめ。そのために何をするか。勉強してください。こども文化学科の卒業生や学生と結構お付き合いしてるんですね、僕。勉強足りません。

 

今ある制度をもっと人間の側に引っ張ってくるにはどうしたらいいのか。自分のやりたい授業はどういう場をつくればできるのか。そのための勉強というのはね、教員採用試験に受かるための勉強なんかじゃ全然足りません。大学の単位を取るための勉強でも足りません。自分でテーマを見つけて、自分で向かい合うものをつくってください。そういうことがとても大事です。

 
10年目だから言うんです。10年前、前の学長の加藤さんとお会いした時に、「こども文化学科という名にするよ」と加藤さんは言ったんです。「教育は文化の中で成り立つんだ。だから文化学科を創る」と。すごい理想があるわけです。じゃあ、沖大のこども文化学科が創る文化ってどういう文化なんだろう。そういう根本を皆さん学ばないと。どんな場を創っていくのかということです。教員は創ってくれません。学生が創るんです。教員は一緒に動くことはできる。でも、学生がこういうところに集まってどうしようかってそういうふうにしないと、そういう場はできないんだ。沖大には「こども文化」という名前が付いた学科がある。その思いを自分たちで捉え直してほしい。

 

文化の中身は何かっていうと、知力です。それから感性です。知と美を自分のものにできるような学びを、まず教員になろうという人間がやらないと。知力と感受性。美しさ、正しさ、誠実さ、そういうことをどんどん深める知性。そういう勉強をしたいと思っているはずで、そういう時間が4年間あるわけです。

 

夜間中学校の方々は、戦争で学校へ行けなかった。5歳くらいから親の手伝いをしたり、売られちゃったりしている。そんな体験をしている生徒がいます。そういう人たちが学びに来るんです。なんでか。もう、いろんなことをやってきた。一生懸命やってきた。たった一つだけ忘れ物があると言うんだよ。学校で勉強することだけ忘れ物していて、それがやっとできるようになったと言うわけです。じゃあ、学校で勉強するって、どういうことなんだろう。

 

学校で学ぶというとき、その場がどういう考え方で成り立っているのか。そういうことが大事なんだ。一人ひとりの生徒を大事にしていくという。じゃぁ、一人ひとりの生徒を大事にしていく場って、どういう場なんだ。言葉で言うのは簡単です。具体的に、それはどういうことなんだって、毎日毎日、そういうことが僕たちの胸にはぶら下がっているんです。そうじゃない場所になろうとする動きがあるんだよ、僕たちの中には。制度ってそういうものなんです。その制度を常に一人ひとりの人間の側に引っ張ってくるには、ぼんやりしてちゃできないんだよ、学ばないと。いろんなことに気づいて、それを自分たちの側に持ってくる。そういう学びがすごく必要。ぜひ、そういう一番ベースになるところの勉強は全員がきちんと、自分たちでしよう。こども文化学科は、そういう学びの集団になってほしい。

 

学校から文化が生まれるってどういうことなのかということだよね。珊瑚舎の場合は、知性を求める心とか、美しさを求める心とか、

そういうものを一番大事にする生き方をしてくれる人が巣立っていく、そういう授業をしていく場だと思っているんですけどね。おこがましいことを言うかわからんけど、沖縄大学のこども文化学科は、そういうことを一緒に歩む同行者、

 

かもわからん。同行者になってほしいというふうに思っているんです。そういう歩みを誰かがしないと、そういう方向に行かないんだよ。誰かがするのを待ってたって行かない。珊瑚舎はそういうことをしたいと思っている。

 

沖縄大学は学校法人ですから、がんばっていろんなことをしてほしいと思っています。次、ぜひ考えてほしいのは、沖縄大学のこども文化学科はちゃんとした付属の小学校や中学校を持ってほしい。こども文化学科の教育というのは、こういう教育なんだよ、こういう学校なんだよって、いつかそういう動きを若い皆さんが創ってほしい。沖縄大学のこども文化学科が掲げる教育の姿、学校文化の姿はこうだよと。もちろん、公教育の中に入っていって、そこで頑張ることはとっても大事です。同時に、自分たちの考えはこういうことだよっていうことを具体的に示してほしい。(会場拍手)

 

 

 

― 星野氏の講演に続き、夜間中学校卒業生の話を聞きました ―

 

星野:教員というのは自分に都合のいいことばかり言うところがありますから、今日は夜間中学校の卒業生に来てもらっています。皆さんに共通しているのは、今までは人の前に立つことができなかったんです。今日はもう、人の前に座ってますから(笑)。そういうふうに人が変わるんです。

 

 

宮城:私が珊瑚舎スコーレの夜間中学校に入ったのは、姪っ子から「夜間中学というのがあるよ」と聞いて、

「小学校も卒業していないのに、中学に行けるのかねー」と思って訪ねてみたら、「はい、一から教えますから大丈夫ですよ」と言ってもらって、そうして夜間中学に入りました。

これまで70年近く、婦人会活動や子どものPTA活動をやったんですけど、やっぱり字が書けないということをとってもひがみに思っていたんです。それでどうしても学校へ行きたいという気持ちがあったものですから。

そうしたら、夜間中学校では自分で「まにまに祭」とかがあって、自分たちでなんでも決めてやらないといけなかったんです。それで私は、司会をしたり、人前に出て話をするということが全然できなくて、自分が司会する番になったとき、「あぁ、もうこっちの学校にはいられない」と思った時もあったんですけど、だんだんみんなと一緒に話をするようになって、それで1年、2年と過ごしてきました。

やっぱり勉強というのは、どんなしてもやりたい、という気持ちがあるんですね。でも、一つ字を覚えるのにしても、今日覚えたら明日忘れるというような感じで、何回も何回も書かないと覚えきれなかったんです。星野先生はいつも「作文を書いて覚えなさい」と言うんです。国語の時間は作文だったんですよ。それで、作文を書くということで、字を覚えるということもできました。

3年が経って、もう1か年珊瑚舎に残ってみんなと勉強したいという気持ちがあったんですけど、泊高校に行って、先生たちに恵まれて高校も卒業できました。

本当にどんなしても、勉強するということはいいことですけど、やっぱりこの歳になったら、もう泊高校を卒業して2か年になるんですけど、いままで習ったことをノート出して見ていたら、「あれ、どんなして覚えたのかね」と思うのがたくさんあるんですね。若いときに勉強しないといけないなということをつくづく感じているところです。泊高校でパソコンを習ったものですから、私は卒業しても、これだけは続けています。どうもありがとうございます。(会場拍手)

 

仲宗根:私たち、考えとか学校に入った経緯というのはだいたい同じと言っていいです。人前で何かやろうというときに、学校を出ていないということで、どんなに後ろ向きになるか。仕事を目指したいと思っても、学校を卒業していないということで切られてしまう。面接どころじゃなくて、入り口を閉ざされてしまう。何回もそういう悔しい経験をしました。

戦後は貧しかったし、親の手伝いや兄弟も育てないといけない。学校を出ていないということは、みな同じ境遇だったんですね。それって、自分の責任ではないんですけど、義務教育を受けられなかった。

自分の娘や孫を見ていると、やっぱり自由で、教育を受けたいところまで行けるということがとっても羨ましく感じましたけど、一つ、納得のいかないことがあるんですね。

私たちは珊瑚舎でわからないことがあると、自分たち同士でできないときはボランティアの方とか先生方が教えてくださるんですけど、自分たち同士でも助け合って、教えあって学んできました。人間って、国語の力のある人、数学の力のある人それぞれ違うことを持ってますよね。国語力の弱い人は国語の先生にしがみつくし、数学の弱い人は何回も掛け算九九を繰り返し、今日習ってわかったと思っても、明日同じ問題をやってみるとできなかったり、ということの繰り返しです。でも、お互いに助け合ったり、「教えてください」って先生方に食い下がったり。先生方も、この人はこれが弱いからということで一人に時間を割いて、納得のいくまで教えてくださったり。すごく先生方にも恵まれましたけれども、生徒同士にも恵まれました。

珊瑚舎では、1年、2年、3年生にそれぞれ作文のテーマがあるんです。それをどういうふうに書いたらいいか全然わからないと言うと、ちょっとだけヒントを出してくださる。でも、最終的には自分で考えて書きなさいということで、やっぱりその辺は訓練というか。

私はすごく文章が下手で、いつも長い文章を書いて、先生に「もっと短くしなさい」って言われてました。

今振り返ってみると、珊瑚舎で勉強したことが、その後の人生を大きく変えました。人の前でも、「これ、わからないから教えて」って素直に言えるような自分になりました。(会場拍手)

 

嘉数:私は昭和11年生まれで、小学校入学の時は、もう戦争が始まっていました。ちゃんと教室に入って勉強したのは、1年生の時だけでした。2年生になりますと、学校に国から本が送られてこなかったんです。「上級生の友達を探して、借りてくるように」って先生がおっしゃって、ずいぶん走り回った覚えがあります。それで、3年生のはじめになりますと、学校が兵舎に変わりましたので、学校から追われて、木下勉強です。それも、1か月くらいかな。だんだん戦争も激しくなりましたので、学校というものはなくなりました。

貸本屋さんだったかなぁ、戦後ぽつぽつ出てきて、文字に飢えて育ちましたので、そういう所に行って、のぞくように手に取って、読んで、それで夢中になって、店長さんに怒られたり。

戦後に始まった学校は、私は3年生の後半からだったんですけど、遺骨拾いをしたり、爆弾の破片を集めたり、そういう遊び半分の子どもを集めての学校でした。

そのまま大人になったような感じでしたので、社会に出て大変な思いもしました。苦い水も味わいました。学校を出ていないということで、ちゃんとした仕事に就けないんです。父親が戦争で亡くなって、体の弱い母がお豆腐作りをしていましたので、姉たちとそれを売り歩いて生活に充ててましたので、学校とは縁のない生活でした。その時代は学校へ行っても行かなくても、先生方が「どうして来ないの?」っていう家庭訪問がなかったんです。だからほとんど私の周りの人も、無学みたいなのがあります。

何か手に仕事を持ちたいと思って、友達の誘いで、親の目を盗んでパスポートを取って、逃げるようにして東京へ出ました。私は美容室に住み込んで美容師になろうと思ったんです。それで1年くらい住み込みで働いた後、通信教育を受けようとその手続きをしようとしたら、義務教育の卒業証書がなくて、そこで切られました。あの頃東京には夜間中学というのがありまして、じゃあ、昼間働いて、夜に学校へ行こうかって、その夜間中学に手続きをしたら、そこは都民の税金で賄っているので、他府県の人は入学できませんと断られました。

沖縄に帰ってきました。日本復帰の時、私たちの教育のことについては、政治は何一つやってくれませんでした。そこでも置き去りにされたんです。

夜間中学ができるという記事を新聞で見て、「ああこれだ」と思って入学したのが、70歳を過ぎていました。ここでの3年間は、それはそれは楽しい学校生活でした。最初の授業で掛け算九九から教えてもらって、それで生徒同士で教えあって、先生が黒板に書いても理解できない人は、御校の卒業生がサポートに来てくださっていて、本当にたくさん教えてもらいました。助かりました。ありがとうございました。

3年間、あっという間でした。いろんなことを覚えて、人の前に出られなかった自分も、なんとなく人前でも話ができるようになって、尻込みしなくてもいいような暮らしができるようになりました。

そのまま卒業するのもあれなんで、泊高校に行って、夢中で、無遅刻無欠席で通いました。それで3年半で単位が満杯になって、卒業しないといけなくなったんです。本当は4年間だったんですけど。「8月で卒業です」と言われたとき、「単位はいらないから、あと半年間おいてください」とお願いしたんですけど、無理でした。でも、とても楽しかったです。珊瑚舎の続きを泊高校で楽しく過ごせたのは、珊瑚舎で勉強したおかげなんです。

教育というのがそれほど人間の人生を変えるものだと、本当に皆さんに大きい声で叫びたいくらいです。とりとめのない話になりましたけど、これで失礼します。(会場拍手)

 

星野:もう終わりですか?(会場笑い)

 

皆さんと考えたいと思うんだけど、僕たちは学ぶことを社会的な価値に置き換えて考えてしまうわけ。それは一つの側面でしかない。もっと大事なことは、そんなものに置き換えられない学びがあるということです。

夜間中学の生徒さんは、一生懸命働いて、ある程度人生を生き切っているわけです。学歴なんて関係ないわけです。それでも学ぼうとしている。なぜか。なぜ人は学ぶのか。どういう学校をつくったらいいのか。今ある学校ではない学校を。

珊瑚舎の場合、簡単に言えば「競い合うことはやめよう」と言っているんです。「支えあおう」と言っているんです。人間は競争が好きだから、ほっといても競争するんです。その競争心を学校があおると、それは悲惨な状況になりますね。夜間中学の生徒さんが話した言葉があります。「先生ね、私は孫が行っている学校には通いきれんよ」って。「あそこはね、競い合っている。珊瑚舎はね、みんなで教えあうでしょ、支えあっているでしょ、だから毎日楽しいさ」と言うんです。こういう所にヒントがあるんです。そういうことができる規模はどのくらいなのか。15名くらいです。それから、「いろいろな先生が関わってくれた」と言うんです。複数の目で生徒と付きあうことのできるように、二人で一クラス受け持つ。こういうのは理想でも何でもないんです。当たり前のことなんです。これを理想だと言ったら、半分あきらめているということです。

学校というものを考えるとき、なぜ僕が「文章書いてください」と一生懸命言ったのか。ある生徒は、書きすぎて腱鞘炎になっちゃった。強制ではないんですよ。でも生徒はそれほど書きたいんです。書くことがあるんだよ。書きたくなるんだよ。人ってそういうものなんです。みんな、自分という器をもっと素敵にしたい、膨らませたい。そういう欲求があるわけです。でも、その欲求がどこかで曇っちゃってる。それをぬぐう力が教員には必要です。曇っちゃっているものをぬぐって、自分という人間に正直に向かいあえる場と時間。これが学校をつくるということです。

そういう勉強をしようと、僕はあなたたちに訴えているんです。それがベースです。その上で授業研究もあるし、教材研究もあるんです。どういう場をみんなでつくるか、そこでどういうことをするか。

いろんなところが「魅力的な授業をつくろう」と言っています。全然そういう方向に動いていません。なぜか。場ができていないからです。答えははっきりしている。なんで、そうしないのか。それだけの財力は日本にはあるはずなのに、なんでしないのか。誰かが動き始めていないと、そういう方向には動きません。

夜間中学の生徒さんは、「自分という人間に対してハングリーになる」と言うんです。「物足りないよ自分は、もっとできるんだよ、こういうことしたいんだよ」って。そういうことを苦痛じゃなく、喜びとして自分に向かいあえる、そういう場をつくること。ハングリーであれば、ほっといても人は学びます。こういう力が必要なんだよ。

小学校に違うものを持ち込んじゃうから、子どもは自分を膨らませていく喜びや、自分という人間がだんだんできてくる喜びが自分で見えないんだよ。感じられなくなっている。そこのところを何とかみんなで乗り越えていかなくてはいけない。そういう場を僕は沖縄からつくりたいんですね。だから沖縄に来させてもらった。もう20年も経つし、病気にもなってしまったから、あなたたち若い人にこんなふうに言わなくちゃならなくなったのかなと思うんだけど、そういうふうにして、動いてつくっていくということを、ぜひやってほしい。こども文化学科10年が経って、次の10年があるはずなんだから。じゃあ、何をするのか。学会もできた。その中身をつくるのは皆さんだから。どういう学びをする学会なのか。ぜひやってほしいと思いますね。

珊瑚舎では、前期の学習発表会「まにまに祭」をやっています。「まにまに」は、「間に間に」ということです。前期と後期の間。人と人の間。それから修学旅行、後期の学習発表会、遠足があります。係を決めて、みんなでやります。場をつくるために必要なことです。そのとき、先生のために動く生徒はいらないです。そうじゃないスタンスで生徒を見る先生が必要だと僕は思っています。生徒と生徒がうまく交流することが教育だと思う。教員は生徒に反応を求めてはいけない。思索を、考えることを求めるんです。そして自分で自分の言葉をきちんともつこと、これが学力です。珊瑚舎の学力というのは、自分を語る言葉を持っているか、人の前できちんと自分のことを話せる言葉があるか、バックボーンがあるか、です。そういう学びをぜひやりましょう。

生徒さんに聞きたいことがあれば、ぜひ聞いてください。

 

会場:お話、ありがとうございました。こども文化学科5期生の○○です。卒業生の皆さんに質問です。珊瑚舎スコーレで学ぶことって素晴らしいんだということを実感なさっていると思うんですけど、子どもたちに伝えたいことがありましたら、お聞きしてもいいでしょうか。

 

仲宗根:学校では、わからなくても学年を上がっていかなくてはならない。そういう中で、変な言い方ですけど「落ちこぼれ」というのがあります。では、その子はどの学年で「落ちこぼれ」から卒業できるか。子どもたちは、自分たちのお友達が競争相手だもんだから、自分はわからないということをちゃんと伝えられない。それを見抜いて、ちょっとでも時間を割いてその子に寄り添ってほしいというのが私の願いです。

 

宮城:私は小学校3年くらいまでの、学校を出た時の漢字は覚えているんですけど、それからあとの漢字はあんまり覚えてないんですね。ですから、子どもたちには一番、基礎を教えてもらいたいと思います。

 

嘉数:珊瑚舎では、みんな生活も違いますし、それぞれの思いもありますけれども、本当に学校へ行くのが楽しかったんです。それで、ちょっと飽きたなと思う頃にいろんな発表会がありまして、その時にグループを組んで「さあ、何をやろうか」ということでいろんなのが出てきました。それがとても楽しくて、そういう学校があちこちにあるといいなって思います。

 

仲宗根:もう一言。「まにまに祭」で、自分たちで計画して発表するときに、各クラスで何をやるかっていうのは、もう私たちが主役なんですね。英語でやる時は大変なんですよ。紙を見ながらでも、うまく発音できないとか。で、私たちが一番得意とするウチナーグチで、宮沢賢治の「アメニモマケズ」を発表したとき、拍手喝采をもらいました。発表は毎年あるので、自分たちで計画して、もう本当に楽しい授業でした。ですから、病気以外は1日も休まずに無遅刻無欠席で3年間通しました。もう一回行ってもいいと思います。(会場拍手)

 

会場:こども文化学科5期生の○○です。現在は教員採用試験の対策中です。昨年は学習支援員をしていました。学級担任のサポートをする仕事ですが、子どもたちは「自分はわからない」となかなか言えずに、学習を放棄するというかそれを態度で表すということが多くありました。お話を聞いていて、子どもたちが「わからない」と言える環境をつくることが大事だなと感じました。質問は、皆さん珊瑚舎で「楽しかった」ということをお話しされていましたが、「苦労したな」ということがあればもう少し聞かせてください。

 

嘉数:苦労したという経験はありませんけれど、皆さんそれぞれ生活が違いますので、いろんな悩みを学校に持ってくる人もいました。そういうときには、やっぱりみなさん経験豊富ですから、話しあって。みなさん、遠慮しないんですよ。いいことも、悪いことも周りに話していると、本人の身になってくるというんですか、自分だったらどうなんだろうということで、そういうふうに解決できました。そういう和ができてきますし、誰かが拒んでいると、ちゃんと手を差し伸べるとか。そういう和がだんだん大きくなってきていましたから、とっても楽しい学校ですよ。

 

仲宗根:そうですね、自分の経験ですけど、自分がどこがわかっていないかということをどういうふうに説明していいかわからない。わからない所がどこなのかっていうことを感じていたし、言葉でうまく説明できない。それは、わりと引きずっていました。あとは、やっぱり自分の努力。できたときにはもう本当にうれしくて、「あんた、わからんかったら、教えるからね」みたいな、そんな感じでした。

 

会場:元教員の濱元です。お三方に共通している「学ぶことが、楽しかった」ということが十分伝わってきました。しかし、珊瑚舎に入学するまでは、行こうか行くまいか葛藤があったのではないかと思います。特に宮城さんは、PTA活動や地域の婦人会活動で「自分が学んでいないということが非常に重荷だった」と話されました。私は同世代ですが、生まれ育ちが宮古ですから、戦争の被害がなく、スムーズに学んできました。先輩方が苦労されたと思っていましたが、皆さんのお話を聞いて、同じ世代でも苦労をされて、学ぶ機会を失ったということですけれども、そういう意味での苦しみみたいなものを教えていただけるとありがたいです。

 

仲宗根:私は那覇市で民生委員を18年間やっていました。障がい者の福祉作業所というのを民生員の仲間から「一緒に手伝ってくれないか」って声がかかって、「私でできることなら」ということで現在もお手伝いをしております。私はボランティアをやっていく中で「はぁ、自分は残念だよな」って思っていました。書くことができない。こういう会合の中でも、みなさん筆記してらっしゃいます。それができないんです。ひらがなで全部書きます。でも、話を聞きながら書くということが、とっても苦手なんです。どうするかっていうと、聞くことに集中するんです。だけど、年齢が50代、60代になってきたら、半分も覚えていないんですね。とにかく、印象に残ったことだけでも今日のうちにということで、パソコンを始めました。パソコンだと漢字が何とかなります。それで、一つずつ意味を調べていって、どうにか書くんですけれど、学問をしている方が2、3時間でできることを3日も4日もかかりながらやっていきました。そういう努力を時間をかけて自分で解決していくしかない。でも、自分で書くことができたら、もっともっとボランティアにも力を入れられるし、自分の力を2倍にも3倍にも活用できるんじゃないかなって思っていました。

私は和裁の仕立てをして、子どもを育てました。ラジオをかけて仕事をするわけです。その時代に、無着成恭(むちゃく せいきょう)先生とおっしゃったと思うんですけど、夜間中学の話をなさるんですよ。「自分も学問をしたいな」と思ったんですけど、沖縄にそういう学校がない。もう学問はできないんじゃないかと半分あきらめていた頃に、珊瑚舎のことをお友達から聞いたんです。そのお友達が一緒に行ってみようよということで、5周年記念の講演会に行ってみたんですね。そうすると、素晴らしい感動の連続でした。でも、それから1年後にしか珊瑚舎の門を私は叩けなかったんです。小学校も出ていないのにいきなり中学か、それは無理でしょうということで1年悩みました。仕事も続けながら夜間中学校で果たして勉強できるのかとすごく悩んでいましたが、そのお友達が「いま学ばないと」って。「もっと歳をとったら、もっと学べなくなるよ」って。だから私は2か月とか3か月ももたないだろうという気持ちもありましたけど、とりあえず踏み出そうということで珊瑚舎スコーレに入学しました。そうしたら、自分が教えてもらったことがわかったときの喜び、本当に何物にも代えられない。あ、少し成長したかな、少しわかるようになったんだ、これで自分はもう少し学べるんじゃないかっていう気持ちがわいて、そのうちにお友達もいっぱいできるし、本当に珊瑚舎の3年間というのは、すごく役に立ちました。

私は民生委員を18年間で辞めました。那覇市から豊見城市へ移動したものですから、その地域のことをやるのが民生委員ですので、その地域のことがわからないと続けることができないんですね。ですからとっても残念に思ったんですけど、辞めました。でも、機会があったらいろんなことに関わっていきたいなと、自分が学んだことを少しでも生かせるんだったら、それは幸せな人生じゃないかなと。先生方にも、少しでも恩返しができるんじゃないかなと思っています。ありがとうございます。(会場拍手)

 

宮城:私がPTA活動をやったのは、うちの子どもがちょっと不良になったものですから、先生に勧められてやったんです。そうしたら、子どもより私のほうが学校へ行くのが多くなって。そこで友達ができて、「私は字が書けないけど」と言ったら、「そんなことは心配しなくてもいいよ、字を書くことはないから」と言われて、その友達に励まされて活動ができるようになりました。そうしてからに、学校の行事には夫婦で行って、何もかもやったんですけど、子どもは高校も卒業できなかったんですけど、今はまじめに働いています。

子どもには「高校は卒業しなさい」と言ったんですけど、自分は勉強ができないものですから、子どもに教えるということができなかったんですね。だから子どもが不良になったのは私のせいじゃないかなと、とても悩みました。だから、子どもが今まじめになって、結婚して、孫も2人できているものですから、もう安心していますけど。(会場拍手)

 

嘉数:珊瑚舎の話では、私はどこへ行っても大きい声で、だんだん声が大きくなって、みんなから「また珊瑚舎の話なの」って言われるくらいあちこちでお話ししてますが、人生、生まれてきて、読み書きできないで去っていくことこそつらいものはないとしみじみ思いました。

私の場合は、戦後の生活は振り返るだけでも身の毛がよだつような生活でしたので、小学校が今でも懐かしくて、そこを通る時は立ち止まって眺めるんですけれど、本当にそういう時代があったんです。

小学校2年生から木の下勉強でした。戦後は、本はない、教室もない、黒板が一つありましたけど、今日はどこの木の下へ行こうかと。地面に石ころで字を書いて勉強しました。そういう時代でしたので、大人になって、それこそ急激に生活が変化していきましたので、ついていけなくて、とっても大変でした。だから、学校に行けなかった同級生がたくさんいますけど、みんなに声かけて、「この年でも、いまだからできるのよ」「食べていけるようになったんだから」と誘うんですけど、断られて、いまになって「行けばよかった」って言われます。

珊瑚舎がなければ高校にも行けなかったし、人生がずいぶん変わりました。人の前に出てもの言うこともできなかったし、まず、役所に行けなかったんです。何を書かされるかわからないので。「字がわかりません」とは恥ずかしくって、人の前に顔を出さないような生活でした。教育が人生をどんなに変えていくか、身に染みて味わってきました。だから、近所の小さい子どもたちが「おばちゃん、これ教えて」「この本読んで」って言ったら、仕事をほったらかしてでも、私は一生懸命、読み聞かせをするようになっています。

歳をとっても、まだ80歳。私は70歳で小学校の勉強をしましたので、80歳はまだ若いつもりでいます。私は高校を卒業するとき先生方に「人生の残りの時間を学ぶことにあてます」と約束しました。いま、月曜日は書道に行っています。教室にいるのは大体、学校の教員の方が定年になって、次は何をしようということで書道を習いに来る方です。私一人が、大変な字を書いて笑われていますけれども。それでも「私の字はこれだ」と、「これから上達していくんだ」と堂々としています。(会場拍手)

 

仲宗根:ちなみにですね、5年後に東京オリンピックがありますけど、嘉数さんはそれまでに英語を覚えて、英語の通訳をするそうです。(会場拍手)

 

嘉数:通訳というのはですね、うちの近所に英会話の教室ができたんです。その看板が「星野英会話教室」だったんです。ああ、ここに珊瑚舎ができたんだと思ったんですけど、教室から出てきた先生に「珊瑚舎スコーレができたんですね」と言ったら、「はぁ?」って。そこにいたのは星野先生ではなかったです。でも、「この歳ですけど、受け入れてもらえますか? 片言英語でも、オリンピックが来たら道案内くらいできるようになりたいんですけど」と言ったら、「どうぞ、どうぞ」と言われましたけど、まだ入ってません(会場笑)。実は、月曜日が習字で、火曜日がパソコンで、水曜日がコーラスで、そのコーラスは音楽の先生だった方たちの集まりみたいで、ついていくのがとっても大変なので、それを辞めて英会話教室に行こうと思ってます。次に来るときは、英語でご挨拶しますので。(会場拍手)

 

仲宗根:もう一つ、嘉数さんが笑いを誘うことがあります。時間があるとボケてしまうので、ボケないためにいろいろ忙しい思いをしたいということで、ダンスを習ったらとても姿勢が良くなるよということで、ダンス教室の見学に行ったそうです。そうしたら…(嘉数さんがマイクを取り、会場笑)

 

嘉数:お友達が「社交ダンスは姿勢が良くなるし、足腰も丈夫になるし、80歳にもなったら、ジョギングするよりも社交ダンスが一番いいよ」って、しょっちゅう同じことを言って誘うものですから、私の中でも、映画で観るような男女がステップを踏んでいるのを想像しながらついて行ったんです。そしたら、そこにいたのがおじぃばっかりだったんです。(会場笑)

 

仲宗根:その話を聞いたとき、私はすかさず「あんたはまだ18歳なの? 世間ではあなたのことをおばぁと言うよ」って。私たちはこういうふうにして、言いにくいことも言っています(会場笑)。

 

川井:まだまだ話し足りないと思いますが。圧倒されるといいますか、僕は68歳ですけれども、ものすごく励まされました。

 

嘉数:高校卒業したばっかりで、精神年齢は18歳なんです。(会場拍手)

 

川井:珊瑚舎スコーレの夜間中学を通して、どんどん元気になられたんだと思います。お話うかがっていても、すごいなと思いながら、僕も、勉強をもっと頑張らないとと思いますね。

星野さんのお話しにもありましたが、やっぱり勉強をやらなきゃだめです。そのとき、勉強について僕らはどういうイメージを持っているのかということです。いろいろなイメージがあっていいのかもしれないけど、やはり星野さんがおっしゃっていたように、制度を人間のために引き寄せてくるような力を持てる勉強をしないといけないと思います。僕たちは制度と付き合っていかざるを得ないかもしれないけど、いつの間にか制度に乗っかっちゃって、スイスイ行っちゃってる僕らがいるかもしれない。

十年の節目としてお話をいただいたわけですけど、みんなはどういう教員として生きるのかということを問われているわけです。僕らも、これから学科をどうするんだというふうに問われているように受け取りました。個人的な感想になりましたけれども、今日は本当にありがとうございました。(会場拍手)

 

 

 

-懇親会は、卒業生と在学生がテーブルを囲み、終始和気あいあいと進行していき、来年度の再会を約束しました。-