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□ アルベルト城間
日系人として最も有名で、活躍している人物。それは、きっとアルベルト城間だろう。
彼は、沖縄からみて地球の裏側に位置する国、南米のペルー共和国の首都リマ市で誕生した。アルベルトの祖父母は沖縄からペルーに移住した移民であり、彼は日系3世にあたる。
20歳までペルーで過ごしたアルベルトは、中南米歌謡コンテスト優勝をきっかけに1987年に来日した。これが、彼の栄光への道のり、第一歩となる。
アルベルト城間の生まれ故郷ペルーでの生活。ペルーで生活をしていた幼少のアルベルト。彼の周囲にはたくさんの日系人がいた。県人会の存在も身近であった。日系人のみで結成されたサッカーチームに所属しており、サッカーに熱中する日々を送っていた。同時に、建築関係の学校に通い、建築に関する勉強に精を出していた。
彼は日本の歌がとても好きで「君といつまでも」が愛唱歌だった。アルベルト城間の歌唱力は周囲の人間も認めるほど評判だった。そして、彼自身「日本で演歌歌手になる」という夢を持っていた。夢をかなえるため、中南米歌謡コンテスト・南北アメリカ大会に出場。見事優勝を果たし、日本への航空券を手に入れた。
1986年。期待と不安に胸を膨らましての来日。当時、彼はペルーに戻る気はなく、日本でがんばっていこうという気持ちでいっぱいだった。
ところが、日本へやってきた彼に待ちうけていたのは、言葉という大きな壁。日本語をまったく喋れないアルベルトにとって、東京での生活はさまざまな苦悩の連続であり、演歌歌手という夢は、夢のまた夢であった。
演歌歌手の夢を断念したアルベルトは一時、帰国を考えた。しかし、自分のルーツを探しに、祖父母の故郷「沖縄」へとやってくる。
沖縄にたどりついたアルベルト城間。はじめて訪れた場所なのに、まるで自分が今まで育ってきた故郷のような印象。彼は、次第にここに移り住みたいと願うようになった。
沖縄にきてからしばらくして、那覇の知り合いを通して城間良和さんという男性に知り合った。彼は、移民の調査や留学生の世話をしている人だ。アルベルトは、彼のもとで1年間お世話になり、日本語を教えてもらった。まるで、日本のお兄さんのような存在。周りの応援・紹介のおかげもあって、再び日本語の勉強・琉球古典音楽を学ぶ生活を送る。
そんななか、アルベルトにひとつの転機が訪れる。城間良和さんに紹介をしてもらった居酒屋「うりずん」で働いているうちに、馴染みのお客さんが、彼が日本へ歌を歌いにきたことを知り、曲をリクエストするようになった。リクエストされた曲を一生懸命歌う彼の姿を見たお客さんが「あなたが歌うのは演歌じゃない。もう自分の中にある音楽があるじゃないか」といってくれた。
ここから、彼は自分の中にあった音楽を意識しだしたのだった。
アルベルトが沖縄に渡ってきてから2年後の1988年、アマチュアバンド「ヒューマン・サウンド」を結成。1989年、音楽を通して知り合ったトム仲宗根と共に「トリオ・ディアマンテス」を結成。着実に実力をつけていった彼らは、1991年9月20日、アルベルト城間・トム仲宗根・ホルヘ城間・ターボ・ボブ石原、計5名でラテン・ロックバンド「ディアマンテス」を結成した。沖縄市のライブハウス「Pa‘Ti」を中心に音楽活動を続け、実力・人気をつけていった。
1993年、沖縄限定のファーストアルバム「オキナワ・ラティーナ」が沖縄県内で5000枚という爆発的売上を記録。彼らの熱い音楽がすべての人に受け入れられた瞬間だ。
そして、同年全国デビュー。デビューして12年。今までに、シングルCD16枚・アルバム15枚(沖縄限定発売アルバム・ベストアルバム含む)を発売している。また、2000年にはソロデビューを果たし、5枚のソロアルバムを発売した。その後も作詞・作曲家、プロデューサーとして幅広く活動を展開している。
彼のつくる音楽の歌詞はメッセージ性が強いのが特徴として挙げられる。特に、ディアマンテスの「ガンバッテヤンド」という曲は、外国からきた労働者の苦悩を歌った作品である。今よりも裕福ではないころ、アルベルトの父や兄が日本に出稼ぎにきていたとき、働く父の姿をみてこの曲を作ったのだ。日系3世の彼にしかつくれない作品である。また、スペイン語の歌詞やラテンのリズムも取り入れた音楽は、日系人の彼らしい音楽だ。
アルベルト城間はペルー人として、そしてうちなーんちゅとして誇りを持っている。そんな彼はとても輝いて見える。今後、彼のさらなる活躍に期待したい。
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□アルベルト城間
□アルベルト城間の歩み
□アルベルト城間さん インタビュー
□パライソ(楽園)
■参考資料
・複数の沖縄 ディアスポラから希望へ(西成彦[ほか]著 西成彦・原毅彦編 人文書院 2003.3)
・ディアマンテス オフィシャルHP
・ディアマンテス小史
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