
1999年12月16日(木)午前、「丸柱」(写真上の、立法院議事堂正面玄関左端)さえも撤去された。立法院跡地は、駐車場と緑地スペースとなる(県当局の計画)。今後の焦点は、県当局の構想する立法院「モニュメント」が、その取り外された「丸柱」を元の場所に据えた上でのものとなるか、にあろう。(この項、1999年12/20追加)
【写真右】1999年12月26日(日)撮影。「丸柱」は、現場近くに置かれていた。(この項、同日追加)
【写真】旧立法院&旧県議会庁舎の保存・再生を求める声に支えられ、1999年11月4日現在、議事堂棟(写真中央)だけは現存している(大嶺達夫氏撮影)。現県議会庁舎が完成した1992年7月(同じ年の11月には、復元された首里城公園がオープン)の翌年、1993年9月、議事堂を残し、事務棟と増築部分が解体されている。そして、その議事堂さえも、取り壊し寸前の状況にある。
写真に、議事堂棟の左側にある事務棟や、手前の門などは取り壊され今はない。その事務局棟の向こう側に建築中の県警建物(行政棟跡地)や、議事堂建物の右側に県庁が見える。その事務局棟には各立法院議員の個室が用意されていた。その環境は現県議会でも維持されているが、県議会議員の多数は毎年、「旧議会棟解体撤去工事」予算の承認と、不執行の決算書を承認してきている。
「立法院」は、復帰前、米軍統治下における琉球政府の立法機関だった。1972年5月15日の復帰後は、その立法院建物がそのまま県議会庁舎となった。
その立法院議事堂は、文字どおり、沖縄戦後史の生き証人といえる。
沖縄は1951年、サンフランシスコ条約が調印されて、北緯29度以南の奄美諸島とともに米国の施政権下に入った。翌年、米国民政府は、三権分立の原則に基づく琉球政府を設立、立法機関としての立法院を設置した。その庁舎の竣工式は、1954年7月26日(ちなみに起工式が前年1953年8月4日)だった。
それから、現県議会庁舎が完成する1992年7月までの約40年(1972年復帰前の18年と、復帰後の20年)に、県議会庁舎の役割をも終えたあとの、現在までの7年と、あと数年を加えると、50年になろうとする。文字どおり、「立法院議事堂は、復帰前の米軍統治下の琉球の歴史と復帰後の沖縄の進路を決定した歴史的舞台でもあった。」
ところで、1996(平成8)年に改正された文化財保護法は、従来の指定制度に加え、欧米ではすでに定着し、文化財保護に大きく寄与しているといわれる文化財「登録」制度を創設している。立法院議事堂は、少なくとも、その「登録有形文化財登録基準」にいう、築後50年前後を経過したもので、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」であることを十分に満たしているといえよう。(文化庁文化財保護法研究会編著『文化財保護法 改正のポイントQ&A』(1997年、ぎょうせい)参照)
毎年計上される「旧議会棟解体撤去工事」予算(1999年度:13,000,000円)は、これまでの7年間(現県議会庁舎の完成が1992年7月)、執行されてきていない。しかし、県当局は、当初の計画どおり、解体撤去の方針を崩しておらず、いつでも執行する構えを示している。
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3)>最近の動き<ページのとおり、旧「立法院」「県議会」議事堂(庁舎)が取り壊し寸前状況にあります。
4)ところで、沖縄県が設置した「旧議会庁舎に関する検討委員会」は、1994年(平成6)4月25日付で、
「本委員会としては,『旧議会庁舎』が沖縄のみならず,むしろ日本の戦後史の中核をなし,沖縄の明日につながる学習体験の不可欠な資料であるとの認識を生かすため,本来の歴史的・文化的意義を発揮し得るよう,再建ないし移築,レプリカでの対応によって活用する等の新たな視点を含めた方途を講ずることが望ましいと考える。」
と報告(答申)していました。同報告の全文は、こちらに、掲載いたします。
5)この報告書を受けた沖縄県当局が、1994年から今日までの約5年間余り、いかなる論議を経て、解体撤去に加えて、「旧県議会棟、年内に解体 県、議事堂はレプリカ保存」(1999年9/22沖縄タイムス)という方針になったのか、不明である。
5-2)そこで、1999年10月21日、県民有志3名により、「『旧議会庁舎に関する検討委員会』報告に基づき旧議会庁舎をレプリカで『保存』する計画決定に至る起案書ほか一切の公文書、および、同計画に基づく執行にかかわる一切の公文書」の情報公開が請求されている(沖縄県情報公開条例第6条)。(この項、11/5追加)
6)この「旧立法院(議会)庁舎保存・再生問題」の沖縄県担当部局は、「総務部管財課」(Tel.:0980-866-2106)です。