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SPECIAL INTERVIEWS

上原浩治さん

元メジャーリーガー/野球解説者 現在、アメリカと日本を活動拠点とし、野球解説・野球評論家として活躍中。

上原浩治 さん (元メジャーリーガー/野球解説者 現在、アメリカと日本を活動拠点とし、野球解説・野球評論家として活躍中。)
17歳へ。

後悔だけはしない。こうしておけば
よかったという気持ちは捨ててほしい。
どんどん前へ。

大阪府出身。大阪体育大学から1998年ドラフト1位指名で巨人へ。NPB時代に20世紀最後の沢村栄治賞受賞と20世紀最後の投手三冠王を達成している。最高勝率を3回獲得(セ・リーグ最多タイ記録)。2013年にはMLBで日本人初のリーグチャンピオンシップおよびワールドシリーズ胴上げ投手となる。現役生活21年にピリオドを打ち2019年現役引退。現在は野球解説者として、スポーツ界の発展、アスリートの魅力発信等に尽力している。

  • 8

    こどもの頃からプロ野球選手を目指していたのですか

    2つ上の兄が野球をやっていたので、練習についていき、6歳から野球をはじめました。中学では所属は陸上部で、野球はクラブチームで週に一度だけでした。その後、高校は野球の強豪校に進学したのですが、選手層が厚くてレギュラーメンバーではありませんでした。仲間に「頼むわ!甲子園へ連れて行ってくれ」という感じでしたよ。当時のエースは現在日本ハムのコーチ(建山義紀さん)です。試合に出られない悔しさはなかったです。プロに行こうとまったく思っていなかったので。結局は甲子園には行けず、部活を引退しました。高3まで野球ばかりしていたので大学受検にも失敗しました。
    その頃の夢は体育教師でした。浪人時代は朝から晩まで予備校で勉強、勉強・・・一番キツイ時期でした。野球は一切せずの生活です。
    今でも、尊敬している人と聞かれると「両親と勉強している予備校生」と答えています。浪人時代が本当に苦しかったので、でも遠回りとは思っていません。その経験があり、今の自分に繋がっているわけですから。
    一浪で大阪体育大学に進学しました。

  • 8

    どんな大学時代でしたか?

    高3の頃、野球が楽しかったので、もうちょっと野球やりたいなと。それで野球部に入れる大学、家から通える大学を選びました。大学1,2年は単位をきちんと履修し、体育教師の夢に向かって迷いもなくがんばっていました。
    大学の部活は自由でした。トレーニングメニューも自分たちで考えるわけです。体育大学なので知識が豊富なメンバーと切磋琢磨できたこともよかったです。大学1,2年の頃、当時はウエイトトレーニングは否という考えがあった中で、自分たちは先駆けてメニューに組み入れて取り組み、プロ選手よりも最先端のトレーニングをやっていました。
    プロを意識したのは大学3年生頃からです。同じ年には高橋由伸たちがいて、一緒に全日本などに選ばれ、プロの道でもやっていけるのではないかと感じて目指すようになりました。
    プロ野球界入りと決めた後、ドラフト2か月前には教育実習にも行き、体育教師の免許も取得しました。

  • 8

    プロとなる際、迷いやとまどいはありましたか?

    アメリカに行くか日本でプレーをするかで葛藤しましたが、日本で一番といわれる読売巨人に入団を決めました。
    入ってからは右も左もわからないから突っ走ったという感じです。周りのサポートは本当にありがたかったです。入団後の2月のキャンプではすごいメンバーの中に自分がいることにビビっていたんですが、先輩の桑田真澄さんが「わからないことがあったらなんでも聞いてこい」と言ってくれたのは大きかったですね。

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    その後、世界に挑戦したときの心境をおしえてください

    メジャーリーグにいく前年、成績はまったく良くなくて、周りからは通用しないのではないかと言われ、自分でもそう感じていました。でもアメリカの野球を経験しないと野球を広く語ることはできないと思い、挑戦することにしました。
    メジャーの野球は日程的にも非常に厳しくてきついです。そのため、1年目でいきなり怪我をしてしまいました。
    言葉の壁もありました。最初は、ものまねなどをして笑わせてコミュニケーションをとっていました。また、通訳さんとはなるべく一緒にいないようにしました。1人でいると、相手が寄ってきて話しかけてくれるんですよ。単語を並べての会話でしたが、恥ずかしさは捨てて積極的に中に入っていくことが大事だと思いました。
    アメリカで野球をやれたことは、素直にとても楽しかったんです。日本にずっといたら嫌いになっていたかもしれない。
    アメリカの野球は、自分で考え、実行しないとダメな世界です。がんばっている個人個人が多い環境の中で、自分自身も一生懸命やり続け、結果につながったことがとても楽しかったです。また、仲間の存在が大きかった。出会えたことに感謝しています。

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    2023年はWBC日本優勝で大いに沸きましたが、2006年の第1回はどうでしたか?

    2006年、第1回のWBCに出場し、優勝して世界一になりましたが、その時は2023年のようには盛り上がりませんでした。準決勝であたった韓国にはそれまでに2回負けていて、負けるわけはいかない状況でした。優勝候補であったアメリカを他国が破ってくれてという棚ぼたの感じもありました。でも、スポーツやっているうえでは運というのは間違いなく必要です。どう引き寄せるか大事。努力し、一生懸命やっている人には必ず回ってくるものです。
    団体競技はみんなで一生懸命がんばらないと結果にはつながりません。日本のチームは団結力が世界一。それが優勝につながっていると感じています。

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    現在のお仕事で大切にしていることはなんですか? 

    解説者として発する言葉についてはつねに気を使っています。テレビ等でもマイナスなことは言わないようにしています。自分の発する言葉を聞いて、もっとがんばろうと思ってほしい。伝えることは難しいのですが、つねに努力しています。
    WBC出場当時の監督であった王貞治さんには、会うたびに「おまえがいてくれてよかった」と言ってくださるんです。めちゃくちゃうれしいですよね。指導者が選手にかける言葉、とても大事です。

  • 8

    正解がわからないとき、どんなことを心がけていますか?

    情報があふれている時代、自分自身にとってよい情報かどうかをきちんと見極めることが大切です。取り入れて、まず経験して中身をきちんとみるのが必要だと思います。情報を入れることは大事ですが、消すことも大事。自分にあわない情報は捨てる、省く勇気も重要です。

    私は1人ライバルを持つことにしてきました。その人ががんばっていると思うと自分はもっとがんばろうと思えました。モチベーションの維持のためには、小さな目標と大きな目標を持ち、練習にも変化をつけることが必要です。

  • 8

    競技人生を振り返って、軸にしてきたことをおしえてください

    「練習は絶対うそをつかない」ということです。そこは譲らないようにしていました。
    練習しないと、努力しないと、うまくならないです。努力に無駄はありません。競技に直結しないこともありますが、考え方等、違う部分に役立つことも必ずあります。