「自分のやりたいことに日々挑戦しつづけていけば、どこかにたどりつく」
本村杏珠 さん (琉球朝日放送 報道制作局 記者)
プロサッカー選手(FC琉球所属)
1986年西原町生まれ。西原高等学校を卒業後、沖縄大学法経(経法商)学部へ進学。大学1年(2005年)のとき、2005年九州大学サッカーリーグ2部の新人王に輝き、翌2006年にはユニバーシアード日本代表候補に選出される。2007年はエースストライカーとして九州大学サッカーリーグ2部の得点王に輝くなど、その活躍が注目されて2009年にJリーグチーム「北海道コンサドーレ札幌」に入団。2010年は出場機会の激減、2011年には2度の骨折にも見舞われたが、2013年に主力選手として起用され、シーズン中のチーム最多となる42試合の出場を果たす。2019年11月より、地元・沖縄のプロチーム「FC琉球」に所属。2020年春、プロ仲間である上里一将選手と共にサッカースクールを開校し、サッカーの楽しさを沖縄の子どもたちに伝えている。
小学生のころから、「サッカー選手を目指す」という夢は一応持っていましたけれど、かなり漠然とした夢でした。当時の沖縄にはプロサッカーチームがなかったですし、テレビでJリーグを観た記憶もほとんどないので、具体的なイメージが湧かなかったんでしょうね。
サッカーを始めたきっかけは、小学校3年生のとき。仲良しの同級生のお兄さんがサッカーをやっていて、その友達と一緒に誘われてチーム(坂田FC)に入ったことです。スポーツは好きでしたけれど、特に「サッカーをやりたい」と思っていたわけではなかったです。
それでも、やっているうちにサッカーが好きになって、うまくなりたくて、中学、高校とずっとサッカー漬けの毎日でした。ただ、正直に言うと、「プロになりたい」とか「プロになれる」とはまったく思ってはいなかったです。実際のところ、中学、高校時代の僕は特に目立つ選手ではなかったですし、地区選抜には選ばれても県代表には入らないような存在でしたから。「小学校の体育の先生か、幼稚園の先生になりたいな」と思って専門学校に行くことも考えていました。
本当にプロになることを意識したのは、大学1年のときですね。
九州大学サッカーリーグ2部で得点王として表彰していただいたときに、「大学もサッカーも本当に楽しいな」と感じました。翌年にはユニバーシアード日本代表の候補にも選んでいただいたんですが、合宿の直前に靭帯を切ってしまって。
そのとき、自分としては「悔しい」という思いよりも、「怪我はしてしまったから引きずってもしょうがない。ものすごく行きたかったけれど、次がんばろう」と、客観的に自分を見ていました。そして、そのときに選ばれたことで、「僕のことを見てくれている人がいるんだ」と気がついて、「プロサッカー選手」という道を自分のなかで改めて意識するようになりました。
あのころは…「高校を卒業したらどうしよう」とか、まったく考えたこともなくて。ただサッカーが大好きで、毎日サッカーをして、「サッカーのためならがんばろう」くらいの気持ちでしたね。
沖縄大学に進学したのは、スポーツ推薦枠で声をかけていただいたことがきっかけです。高校3年生のときに沖大と西原高校との練習試合があって、僕らのチームメイトに強いフォワードがいたので、そのときに僕のことを見ていただいたのかも知れません。
ただ、推薦であっても評定平均は3.0以上ないと絶対にダメということで、「やばい、どうしよう」と。
3年の二学期くらいから、一番前の席に自分から座って授業を受けて、必死にノートを取りましたね。テストは自信がなかったので提出物とか授業態度とか、日々の積み重ねで点数を稼ごうとがんばりました。
それで最終的には4.5くらいだったかな? ちょっと記憶が定かではないですが無事に推薦を受けることができて、自分自身でも「やればできるじゃないか」と、苦手な勉強に対しても小さな自信を積み重ねることができました。
実は、高校時代の僕にはちょっとだらしないところがあって。自宅は高校まで5分くらいの距離だったんですけれど、好きなテレビ番組を見てから家を出るのでよく遅刻していました。出席停止にはならなかったけれど、放課後によくペナルティとしてグランドを走らされたりしましたね。
遅刻癖に関しては、プロになってからも1年目に北海道で苦労しましたね。沖縄特有のルーズさといいますか、いわゆる「ウチナータイム」が抜けなくて。選手が集まる会議でも集合時間に出発するようなタイプだったので、先輩方はもう来ているのに僕だけ開始時間ピッタリに行ったりとか。周りから「それはまずいよ」と言われて、努力して直しました。その点に関しては、沖縄から出て本当に良かったと思っています。
沖縄だけに留まってしまうと、やっぱり世界が狭いですし、サッカーに関しても対戦相手として上手な選手は県外の方が圧倒的に多いですから。高校とか大学とか、チャンスがあるなら早いうちに沖縄の外に出る経験は絶対にしておいた方が良いと思います。
自分のプレーとか、サッカーに対しての挫折は結構たくさん味わっています。
いちばん大きな壁は、プロになって2年目にぶちあたりました。なかなか試合に出れない、という壁です。
それは技術とか、自分の能力レベルの問題ではなくて、サッカーに対する向き合い方というか、気持ちや情熱の問題で。結局は自分の弱さだったと思っています。
小学校のときからいつも試合の最前線で戦ってきて、プロ1年目も25試合くらい出させてもらったので、「1年目にこれだけの結果を残せたし、2年目もできるだろう」と、自分が慢心したことが原因です。
1年目はまだ寮で生活していたので、いつも居残りして筋トレや自主練をしていたんですが、2年目からは一人暮らしになって自由に使える時間が増えたので、いつしか自主練をしなくなっていました。自分の体調管理もできず、それがパフォーマンスにも影響していたと思います。
でも、沖縄からせっかく出てきたのに「俺はこのままでは帰れないぞ」と。沖縄出身の選手が何人か帰って行くのを見ていましたし、親や、応援してくれている人たちの顔が浮かんで「申し訳ないな」と。「とにかく何かしないと。試合に出ないと」と思っているだけの日々が、いちばん辛かったです。
その当時、僕をチームにスカウトしてくれた方がコンサドーレのコーチをされていたんですけれど、2年目の僕を見て、「お前はもうダメだ。沖縄に返す」ときっぱり言われたんです。その言葉で、自分の弱さに気づかされました。
その年、チームに強い選手がたくさん加入したことも試合に出れない一因だったんですけれど、「あいつがいるから無理だ」とか、そういうことではないんですよね。自分自身にちゃんとベクトルを向けて、「あいつはああだから、僕はこうしよう」とか、そう考えればポジティブになって、改善点を自分で発見できますから。
そのとき、そのコーチからもうひとつ、「チームにフォワードの選手が多いから、サイドバックをやってみたら」と言われました。僕は小学校のときからずっとフォワードだったのでサイドバックの経験はなくて。でも、僕自身が「このままじゃダメだ。ポジョンがどうであれ、試合に出ることが大事だ」と痛感していたので、その言葉を素直に受け止めて、自分を変えることができました。
スポーツの世界で「いい選手」と言われる人は、小さいころから「素直」だとよく聞きます。
素直な選手は人の意見を素直に吸収して、それを自分なりに消化して外に出していくのがうまいですよね。
人に何かを言われたときに反発してしまうと、善かれと思って意見した人も「ああ、この子はこういう子なんだな」と、積極的に指導してくれなくなったりしますし、だから「素直になる」というのは、本当に大切なことです。
僕自身、「サイドバックをやってみたら」と言われたときに、その言葉を素直に受け止めて挑戦したことで、今ここまでプロ生活をやれていると思いますし、もし、あのとき「僕はフォワードだから」と助言を突っぱねていたら、たぶんその時点でプロ人生は終わっていたかなと思います。
僕にとっての成功は、今だからこそ過去を振り返って言えることですけれど…
サイドバックとして再挑戦して、チームに貢献できるまではものすごい遅咲きで、3年くらいかかりました。徐々に、少しずつでしたけれど、2011年には、今までキャリアの中で最多の41試合に出場することができました。これが、僕が経験した最高の成功体験です。
だから、成功は失敗のいちばん近くにある、隣り合わせの存在なのかなと思います。
経験っていうのは、自分が体験したからこその財産です。何かに挑戦して失敗したとしても、その失敗を次の機会に「次はこうしよう」と変えていけばいいし、失敗の経験を積み重ねていくその道の過程に、成功があると思います。だから、どんどん失敗していいと思いますね。
いつも、「なんとかなるさ〜」と、「なんくるないさ」精神でがんばっています。
怪我は、自分の力ではどうにもならないことが多いですし、挫折も失敗も「イチャリバチョーデー(一度出会ったら兄弟)」です。
僕の人生はまだたった34年ですけれど、そのなかで、たくさんの仲間とたくさんの人たちに助けられたこと、人に恵まれたことを感じています。
沖縄大学で活躍できたのも、プロに入ったのも、僕を紹介してくれた人がいて、スカウトしてくれた人がいるから。僕自身の能力はそれほど高くないのに九州大学リーグで得点王になれたもの、チームメイトが僕のところにボールを集めてくれたから。Jリーグの試合でも「僕にボールを運んでくれたチームメイトに感謝します」と必ず言うんですけれど、それは本当にその通りで、一人でサッカーしているわけじゃないですから。
もちろん、最後に決めるのは自分自身だと思いますけれど、そこまで繋げてもらったこと、影で支えてくれる人たちの存在にいつも感謝しています。
「そのままでがんばれよ」と言います。17歳から34歳までの道のりを変えたいと思わないので。
いちばん好きなサッカーの選手になって、結婚もして、子どもも生まれて。
その流れは、17歳のときにはもうできていたと思いますから。
今、もし進路や将来のことに悩んでいる17歳の子がいるとしたら、
「あなたは一人じゃないよ」と、伝えたいです。
お父さん、お母さんも気にかけてくれていると思いますし、まわりの仲間とか、先生とか、
絶対に誰かが見てくれていますから。
もし、あなたの近くに悩んでいる子がいたら、「自分一人って思い込まないで」と声をかけてほしい。
もちろん、その一言が言えないからこそ、悩むのかも知れないですけれど…。
スポーツにたとえるなら、個人競技だとしても、その競技には必ず裏方の人がいます。
金メダルを取るようなトップアスリートでも、そこまでこれた過程の裏にはたくさんの人がいる。
誰にでも、必ず支えてくれている人がいるから、今がある。
「その人たちのために」というふうに思えたら、「もう少しがんばろう」と思えるかもしれない。
「誰かのために、何かのためにがんばろう」という思いと、自分の「がんばろう」をリンクさせたら、
何か道が見えてくるのかなと思います。
「失敗」の経験を重ねていく
その道の過程に「成功」がある。